またまた間空きましたが、前回の続きデス・・・
津川原の河原にて「生死の選別」が始まった訳ですが、
目の上のタンコブである「宰務一族」を探してたので
大半の穢多の人々は、徐々に解放されました。
※津川原の河原・・・南側
津川原側交渉役を務めた「杉原長蔵」と手習い師範の
「旭 八郎」が捕まり、遂に津川原の長「宰務喜一郎」と
長男「龍太郎」次男「喜平」が捕まりました。
「切腹しろ!!」とかヤジが飛び、「殺れ!!」の一言で
竹槍にてメッタ刺し・・・喜一郎以下8名が惨殺された。
※のちに建てられた慰霊碑
次男 喜平の命乞いをする母「みえ」・・・
「DNAを後世に残す訳にはイカン!!」と、同じ運命を辿る。
結果、逃げる途中に殺害された者8名(1~79歳)
河原で処刑された者9名(16~63歳)
不明の死1名(1歳) 計18名の命が絶たれました。
※慰霊碑の向かいには、多くの供養塔が・・・
津川原の主要な人物を惨殺し、達成感に満ちた農民達は
ぽっりぽつりと、次第に解散して行った。
(惨劇が終わった頃、県役人到着!! 説得もあって)
結局、県庁への抗議では無く津川原征伐で終わってしまう。
※兼田橋周辺
29日には県役人に説得され、一部を除き収まりつつありました。
※小高い丘の日上地区
県南の一揆勢400人は北上し、県東の玄関口「兼田橋」を目指していた
兼田橋手前の「日上集落」・・・コノ集落の穢多を先頭に立たせ
「新制度に穢多も反対している!!」と、見せる為に集落に入るが
それだけは許して貰おうと翻弄する、長の可児房次郎
詫び状では収まらず「屠牛に関わる2軒を打ち壊せねば、全て焼き討ち!!」
穢多が穢多の家を壊す!! これも惨い仕打ちで御座います。
※頂上に鎮座する日上八幡神社
破壊の限りを尽くす・・・一揆勢
無論県側も黙って見てる訳でも無く、兼田橋東岸で迎え撃つ
準備をしてました。
(鉄砲隊2小隊・裏山に大砲2門配置し、大阪へ援軍要請)
5月30日、兼田橋に一揆勢が押し寄せた時!!
突然数発の銃声が鳴り響き、慌てて逃げ出す農民達
何とも惨めな敗退です・・・(>_<)
翌日31日、他の関所では4~5名が射殺・2名が斬殺されたとか
ここで一連の一揆に、終止符が打たれたのでした。
今日は、ココラで良かろぅ~かい?
それでは皆様、ごきげんようデス