長らく続いたコノ記事も、やっと終わりマス(^^;
5月26日~31日にかけての農民による大一揆
現代の様な通信手段も無く、全体的な統制取れなかったモノノ
コレだけ広範囲に拡散させた事に、全く恐れ入ります(>_<)
北条県(津山)は一連の一揆指導者を探すが、コレと言った者を
見出す事が出来ず貞永寺~津山の一揆、またその発端を作ったとして
「筆保卯太郎」が、最高責任者に挙げられました。
無論コノ時代ですから、拷問など当たり前・・・(>_<)
結果、筆保卯太郎と津川原残虐行為&指示を行った
加茂谷周辺の農民14名と、共に死刑が確定しました。
※他の一揆勢は、穢多の死者が出なかった為
死刑15名・懲役65名・杖刑(100叩きの刑みたいなモノ)624名
罰金刑26,203名、総処罰者26,907名・・・
処罰数は当時北条県総数の1/2の人数となり
一番軽い罰金刑が一律2円25銭(当時1円→現代で約2~2万5千円)
経済的に厳しい農民にとっては、かなりキッかった事でしょう
死刑の執行は翌年(明治7年)7月2日、八出の河原?
兼田橋近くの刑場?で行われました。
(チョット、この辺りがハッキリしないトコロ)
ただ時代的背景をみると、兼田橋周辺が固いかな?と・・・
※川辺河原刑場跡
※川辺河原 刑死者供養地蔵と千人塚供養塔
加茂川の兼田橋両岸は昔刑場があり、北東の川辺
南西の兼田で処刑が行われてました。
出雲街道沿いともあって、見せしめには良い場所だったのでしょう!!
※兼田河原刑場跡
※兼田河原の三界萬霊塔
兼田は「JR姫新線」の工事の時、大量のお骨が出てきて
供養の為に「三界萬霊塔」が、建てられました。
※貞永寺に眠る筆保卯太郎氏
・・・辞世の歌・・・
露と消え(まえ)~露と消えゆく我身かな~こぞの騒ぎは夢のまた夢~
筆保卯太郎 享年34歳
これにて一連の幕が下ります。
結果として政府に反する者を一掃出来、見せしめにもなり
更に罰金徴収で、お金もガッポリと・・・(^^)d
北条県とすれば一石二・三鳥で、新制度がやり易くなった訳で
「早期に一揆を鎮圧出来たのでは?」「ある程度拡散させて一網打尽?」
「県側と戸長・副戸長がグルだった?」とか、書物を見てると
色々な陰謀説が出てきます。
真実は分かりませんが、私的にはアリかな?と思ってしまいマス(^^;
5回くらいで終わらすつもりが、長々となってしまい
大した情報がある訳でも無いのに・・・
お付き合い頂き、誠にありがとうございましたm(__)m
それでは皆様、ごきげんようデス
☆今回のミッション&資料
ある墓碑銘への注・・・岩間一雄
〇川辺河原刑場跡・・・千人塚供養塔/刑死者供養塔
〇兼田河原刑場跡・・・三界萬霊塔