※はじめに・・・このブログの内容は、私個人の憶測であり
史実と沿わない記載があると思いますが・・・あしからず。
アメリカでの白人・黒人のトラブルが、ここ最近多くなって来ています。
我が日本も未だに同和問題として中々解決出来ない事があります。
ネットで色々調べていたら、岡山でも人種問題の大きな事件があったと・・・
美作地方の一揆は1873年5月26日、北条県で起きた。その後、6月1日まで蜂起は続き、大変激しいものとなった。「元魁」筆保卯太郎を中心に、北条県西西条郡貞永寺村から一揆は起こり、苫田(とまた)郡、久米郡、英田(あいだ)郡、勝田郡、真庭郡へと広がった。5月27日には一揆勢は津山まで至り、そして5月30日東部から津山城下への突入をはかった。しかしこれは、県の役人側に負けて失敗に終った。
参加者は「徴兵令反対、学校入費反対、穢多非人の称廃止反対」などを叫び、焼打ち、打毀しを行った。その対象は、官員宅・区戸長宅・副区戸長宅・盗賊目付宅・地券懸宅・小学校・被差別部落民宅などで、被害は432軒にものぼり、さらに勝北郡津川原村などの被差別部落では、住民29名が殺傷される事態となった。
6月1日、大阪鎮台などの兵が北条県に到着し、やっとこれを鎮圧した。筆保卯太郎は拷問にかけられ、「徴兵・地券・学校・屠牛・斬髪・穢多ノ称呼御廃止等」の撤廃が目的であった、と供述した。また、普段から新政に不満があったとも述べた。有罪とされた人数は26,916名(2,700人あまり、とも)で、懲役刑64人、筆保卯太郎以下15名は死罪となった。(ウィキペディアより)
岡山県北の事件と言えば「津山事件」が有名ですが、それをさかのぼる事・・・65年前
この様な事件があったとは知りませんでした。
「一度、その地へ行って肌で感じてみたい!」との気持ちが,今回の旅?となりました。
岡山市内から津山院庄へ・・・「道の駅久米の里」で
早目の昼食を済まし、出発の地である貞永寺村
「貞永寺」近辺の集会場へ向かいます。
R179より少し入った所に「貞永寺」はあります。
建物は、かなり疲れ果てた本堂・・・
お寺として機能してるのか?分かりませんが
鐘つき堂もチャンとあります。
少し重い空気を感じながら、農民達が集結した
「集会場」を探します。
周囲を見渡すと、すぐ近くに「火の見櫓」を発見!
資料によると火の見櫓の広場に反対農民達が
集結し、2手に分かれて1隊が津山へ南下
もう1隊が東へ山越えし加茂町へ同士を
集めながら津山へ進撃する計画でした。
集会場の辺には供養塔のようなものが沢山
並んでました。
現在も地域の集会場として使われてる様です。
今回のルートですが、R179から県道68号を進み加茂行重(津山事件の)を抜け加茂の町へ入ったのか?
それとも、県道392号~県道72号へ北周りして加茂宇野へ抜け、北部の集落を制圧しながら加茂入りしたのか??
ここで問題が・・・動画などで見たのですが県道68号は、かなりの酷道・・・
今回、狭い集落を散策する為、コマジェで来ました。取り敢えず1リットル弱の予備燃料も
持って来てますが、悪路に弱いスクーターでは厳しそうなので県道72号の北周りを選択します。
それに途中「岩屋神社」に寄らなければならないので、安全策を兼ねてです。
県道392号から県道72号に入り鏡野町岩屋に
到着しました。
順番が前後しますが、ここは、筆安卯太郎等
平民制度反対派の代表たちが密会した場所!
「鎮守の森の社」と書かれていて、鏡野町で調べたら「岩屋の森」と出ました。
森の入口には「岩屋神社」があり・・・「多分、間違い無い!」
岩屋集落の公民館から少し東側の山裾に隠れる
ように、ひっそり佇む「岩屋神社」・・・
この裏には「岩屋のカツラ」と言う
樹齢700年のカツラの木が、有るそうです。
結構な勾配の斜面みたいなので、怪我をする方も居るみたいです。その為か?
はたまた鳥獣対策か?分かりませんが・・・トタン板で塞がれ境内には入れずしまいでした。
さて岩屋集落を後に、県道75号を北東へ向かう私・・・。
次回は、加茂編へ続きます・・・それでは、皆様ごきげんようデス
☆今回の参考資料
○存在を問い続けて「岡山部落解放史ノート」
明六一揆
○現代の理論
美作騒擾140年の沈黙に抗う
○ニコニコニュース
地図から消えた村・津川原